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2007年 05月 14日
医学者・手塚治虫
手塚自身は医業が本業でマンガは副業と述べているが、これは手塚特有の冗談で、通常は漫画が本業と考えられている。(この文章が、『ぼくはマンガ家』という文の中で発表されたという事実そのものが、その内容が冗談であることを示している)ただし、知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及はいくつか残っている。 戦争末期、海軍飛行予科練習生に志願するが、身体検査(視力)で不合格になった。この試験に不合格になった者は、健民修練所という全寮制の訓練所に入所し軍事教練を受けることになっていた。手塚も入所したが、栄養失調のまましごきに近い教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というところまで悪化した。建前としては、このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動し医師を目指した、ということになっている。ただし本人は、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であることを認めている。 戦後に設立された奈良県立医科大学に電子顕微鏡が導入されたが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置も技術も無かった。そこで、手描きでスケッチをしなければならなくなったが、医学論文に添付するようなスケッチは単に絵が上手いだけでは不適で、医学的な知識を持った者が描かなければ役に立たなかった。困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んだ。このため、手塚は電子顕微鏡を自由に使え、なお且つスケッチもできる日本で唯一の研究者となった。 頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で多くのスケッチを行い、これを論文にまとめ医学博士号を取得した。これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されており、いま現在見ても実に精緻で、かつ美しいものである。なお、同大学の図書館には、かれが後に贈ったブラック・ジャックの絵が展示されている。 テレビなどで漫画の害悪を糾弾(いわゆる悪書追放運動)するような教育番組が多く放映されていた当時、出たがりの手塚は、糾弾の矛先となるのを承知の上で漫画擁護のため、そのような番組に率先して出演し教育学者やPTAなどから直接批判を浴びていた。しかし、手塚の博士号取得後、司会のアナウンサーが「医学博士の手塚さん」と紹介するようになると、漫画を読むと頭が悪くなると主張していた保護者代表らはその持論が破綻することとなり、その後そのような主張を展開する者は徐々に減ることとなった。ただし手塚は、批判をかわすために博士号を取得したのではないとしている。 手塚が実際に患者を診たことはほとんど無い。専門は外科であり、外科医としての専門知識は、『ブラック・ジャック』等の自身の作品にも生かされているが、医学博士を取得した研究テーマは、幼少時からの昆虫少年であった履歴をしのばせる、むしろ基礎生物学的領域である、タニシの異形精子細胞の研究であった。そもそもの漫画家としてのキャリアは、少年時代に同じ昆虫少年たちを集めて創立した昆虫同好誌への漫画作品の連載から始まっており、精巧な昆虫細密画集とも言える手書きの私的な昆虫図鑑を描いたりもしている。こうした生命を愛す長いキャリアを背景にした豊かな動植物に対する知識も作品に活かされている。 手塚治虫 僕の父親も医学博士ですね。
by Rock_Hill
| 2007-05-14 01:20
| アニメ・マンガ
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